年末の大河ドラマの総集編、篤姫を見ました。じっつは説明し始めると長く、かつ鬱陶しい事情があり、本編は本当に殆ど見ない、厳密に言うと用足ししつつ、背中で聞いている時もあった、と言うひどいレベルです。

しかし、総集編見て、結構ハマりました。思えば、武将のエピソードばかりが目立つ戦国時代やそれ以前の時代と違って、幕末と言うのは、私が子どもの頃には、ごくごく僅かながら、その時代に生を受けた人がいた時代なのですよね。

もっとちゃんと聞いておけば良かったと思うのですが、その時はその意義が分からず、追求しなかったのが悔やまれる話も少しばかりあります。

例えば父方の縁者が上野寛永寺の僧侶だった事。その人がそれなりに高位だったのか、高位の人がやって来たのか…へーっ、で済ませてしまいました。

ただ、彰義隊の悲惨な最期を物語る説明看板が雨風にさらされてなお生々しい絵で、小さい頃からモノクロなのに時代劇の流血シーンを見ると泣いて嫌がった私にはきつい場所でした。

祖母からは、長州の下級士族で維新の頃には走り回っていたと言う彼女の祖父の話を聞かされましたし…でも、どこを? 京都だったのでしょうか。

折しも今年五十周年を迎えた東京タワーの麓にある徳川家の菩提寺、芝増上寺の学術調査も行われていましたが、それについても興味を持つのには幼すぎました。

逆に言えば、周りの大人が結構リアルな口調で明治維新の頃の事を語るので、フツーの世間話みたいな感覚で右から左に流れてました。

私の親世代までは、維新の動乱期を乗り越えた人たちの話をじかに聞くチャンスがあったのですね。

(私たちは第二次世界大戦の話を体験者からじかに聞ける最後のチャンスを生かさないと、と思いますが)

小さい頃にもっともっといろいろ聞いておけば良かったと思いつつ見ました。

そう言えば、幕末の事を昨日のように語ってくれたのは会津と並ぶ佐幕派として維新後に並々ならぬ苦労を味わった庄内藩のお城跡にある庄内神社の宮司さんでした。

ごく単期日で堀を埋めろという官軍の横暴な要求に対し、古畳を投げ込んで対処したとか、理不尽な扱いに対する怒りと共に、西郷隆盛の温情あって会津程の悲惨な事態にならずに済んだ、と遺徳を讃える西郷さんコーナーを旧藩主邸跡に出来た致道博物館の中で見た時には、驚きました。

西郷さんを慕い、西南の役の戦いに旧藩士が参加し戦死した事は地元では有名な事実です。

話があちこち飛びましたが、私の祖母と父、母が一人娘だったので、血縁関係の無いこの二人が、ぶっちゃけて言ってしまえば相性が悪いのも仕方ないのかも…片やは長州の出、片やは徳川将軍家の菩提寺の僧侶と縁者、と言う事は佐幕派系……(-.-;)

なお、横浜市の開港資料館と言う山下公園、大桟橋にほど近いところにある博物館の今の館長さんは徳川さん。勿論、旧将軍家の子孫ですが、福耳で、家康公の肖像画と良く似ていらっしゃいます。

来年は横浜市の開港150周年なので、様々な場に登場されるのでは、と思いますが、篤姫の家族を守る、と言う目標は見事に達成されているなぁ、と思うのであります。


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