使う時は結構使ってしまいますが、ふだんはあまりお金を使わないなぁ、と昨日、先週と鎌倉に行って思いました。何せ、安いものが大好き! 京都では近代美術館でラグジュアリー展を見ましたが、私の生活にはない言葉だなぁと思います(もっともひたすら豪華華麗な事をのみラグジュアリーと定義するのではないという言葉もあり、それにはちょっと共感しましたけど)。

 で、しかし、一方です・・・ドけちを標榜している私ですけれど、一緒に過ごす相手を「ああ、しんど」と思わせるレベルのケチは度が過ぎたみみっちさであり、さらに人を貶めるほどのケチになると吝嗇ですね。笑って自称できるくらいのケチが1番害がない、害も受けにくいかなぁ、なんて思います。(何せ、怪しいビジネスのねらい目は見栄を張って小金を持ってる事をチラつかせる人や、欲に駆られる人ですからね)

 細かい定義はともかくとして、一般的な解釈で言うラグジュアリーな方々とは本格的なご縁は持てないと思うけれど、一方で、あんまりにみみっちい方ともご一緒したくないですね。

 私の中で、ちょうど頃良い基準というのは、ティーバッグ1個で2杯の紅茶を淹れるという感じでしょうか。
 お代わりをすると分かっていて、ティーバッグを1回しか使わず捨てちゃうのが常態化している方とはあまりお近付きになりたくないです。(あ、世間では名士と言われている方って、結構質素ですよ。ラグジュアリー=浪費と言ってる訳じゃないです)

 一方で私みたいな茶飲みババタイプにとって、何杯も飲みたい紅茶をひとつのティーバッグで延々と出そうという方も(いるんです、現実に・・・)ちょっとごめんこうむるかな。

 勿論、本当に質素な生活をしなくちゃいけない状態の方だったら、全然構いません。例えば、私が思い出すのは「コタンの口笛」という少年少女向け文学の傑作(と私は思っていますが、今も読まれているのでしょうか?)の中に出てくる用務員さんが淹れてくれるうす〜いうす〜いコーヒーの香りのするお湯。実につましい飲み物ですが、それは差別と偏見の大きかった時代のアイヌの貧しい用務員さんが淹れてくれる心のこもった飲み物であり、心の豊かさを感じさせてくれる飲み物でした。・・・って感じならば、たとえティーバッグ1個で何杯出されても嬉しいですし、ありがたいです。



(あ、まだ、ありました。今の時代に読むと、はるかな過去と言う感じかも知れませんが、いい作品ですよ。この作品を通して、小学生だった私は差別と偏見の恐ろしさや無意味さを学びました。蛇足ながら、作者の石森先生は祖父の友人だったという事で、祖母からお手紙を送ればと言われたのに「立派な先生にお手紙なんて」と引っ込み思案で実行しなかったのを後悔しています

 でも、そうではない私がやだな〜と思うティーバッグ1個で延々ってタイプの人って、着るものや持ち物などには贅沢をしながら、細かいところでおっそろしくけちなんですよ〜。そういうタイプは、得てして人の好意に平気で付け込んで、自宅に車を持ちながら、人の送迎を当てにしたり、自分のものは出さないで、人の持ち物を使ったりするんです。

 それが私がごめんこうむるティーバッグ1個で3杯以上淹れる経済感覚の持ち主の中身ですね。

 実際に自分ひとりだと、ティーバッグ1個で3杯はしょっちゅう出す私なので、ほかの部分で吝嗇と言われるレベルには決して達しないようによ〜く気をつけたいと思います。

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