本日は終戦の日。

 父は確か「終戦じゃなくて敗戦の日」と言っていたかと思います。

 戦前の治安維持法を思わせる特定秘密保護法案なるものが出現し、集団的自衛権の閣議決定などのニュースを、もし父母が存命で見ていたら、どんな感想を持つでしょうか。

 伯父とか祖父とか、近い関係の親戚で、戦闘や空襲で倒れた人はいない我が家。軍医だった伯父はマラリアにより北京で客死。父はその知らせを受けて満鉄に乗り北京に参じたそうですが、大陸系の顔立ちのために、引っ張られて大和ホテルで取り調べを受けたとは、以前も書きました。

 日本が日韓併合をしていた時代、植民地とされた朝鮮半島の人々は格下の扱いを受けて、満鉄に乗るのをとがめだてされる状態だった訳です。

  到着した北京では、日本の兵隊が中国人に自らを背負わせて、あっちへいけ、こっちへいけ、と無理無体なことを言って、中国人が泣きそうになっていた言葉をというのを、最晩年の父が語っていました。「可哀想だけど、どうにもできなかった」と。あれから、わずかな日数で永訣となるのが分かっていたら、もっと詳しく聞いておくべきでしたが、逆に、自らの最期が近いと心のどこかで分かっていての言葉だったのかもと思われないでもないです。

 
 義父も、元気な時の最後の方になって、やっと、武勇伝じみた「上官と喧嘩をして、自分の部下を引き連れて庄原に行ったから、原爆投下に居合わせずに済んだ」という繰り返しの言葉とは全く違う、原爆投下後の処理の恐ろしい風景を語ってくれました。たぶん、普段は記憶に蓋をしておきたいが故に、勇ましい事を言っていたのでしょう。

 カエルのようにおなかが膨らんだ亡骸が、ぷかぷか川面に浮かんでいたそうです。芋のツルを食べ、代用〇〇を盛んに使っていた終戦直前の日本に、きちんとした防護服の類があったとは考えれませんし、あったとしたら、最高権力者くらいしか手が届かなかったでしょう。おそらく義父は素手か、それに近い状態で亡骸の処理などをしなくてはならなかったのではないでしょうか。

 白血球は手帳をもらえる程の数値だったけれど、のちのちのことを考えて申請しなかったとも言っていました。それだけ、被爆したという事に対する偏見は強かったという事でしょう。幸いにも、96歳で天寿を全う出来ましたが、若いころは子どもにも影響があるのではないかと不安だったようです。

 英語が敵性語だった母は、終戦後、女学校で、ABCから授業を始めている時、下の学年の後輩たちの嘲笑を受けて、クラス全員が泣いたそうです。そして、私たちはお国のために習えなかったのに、ああやって嗤うなんて、酷いと抗議したとも言っていました。

 その母は都心爆撃で空が赤くなり、灰が、当時は農村地帯だった世田谷の桜新町に漂ってきたと言っていましたし、懇意にしている女性研究者が、大やけどを負って、皮膚がはがれた状態で駆け込んできたという事も言っていました。

 被害が最も少なかった部類の我が家でも(父の実家は消失。父が亡くなった後の相続で、戸籍を取り寄せた時に、原簿は空襲で喪失という旨が大書された戸籍謄本が届きました)、それぞれの心に傷を負った訳ですから、大切な人を失った方たちや、戦場で悲惨な思いをした方たちにとっては、どんなに辛いことだっただろうかと思います。

 震災は、人災という部分が無きにしも非ずもせよ、天災であり、人がどうこう出来るものではありません。でも、戦争は間違いなく人災。

 そして、戦争はいつも弱い者を悲惨な目に遭わせ、強い者だけが得をするのです。

 辛い経験を経ての平和。これを崩すようなことがあってはならないし、日本はよく知られているように朝鮮戦争特需は戦後復興に大きな影響を与えましたが、本来は他国の紛争で儲ける事もあってはならないと思うのです。

 若い方たちの中には、戦争が出来る方向に向かう事を歓迎する向きもあるようですが、起きてしまったら、後戻りは効かないのが戦争です。歴史の本を読むのが面倒だったり、身内に語ってくれる人がいないのならば、少なくとも、終戦の日の前位から、テレビや新聞が取り上げる特集を、複数にわたって、ちゃんと見たり、読んだりしてほしいと思います。

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