この年になると、既得権を得ている方々が口にしがちな「かわいくない」状態になります。

 既得権を得ている層=旧弊な考え方の方々(男性が多し💦)、年配者、富裕層、政財界のお歴歴と言う前提で、彼らにかわいいと言われるのは、若いだけじゃダメ。従順さ、疑問を口に出さない、与えられた事を黙々とこなす、などなど、要するに「都合よく使える」のが肝要。

  子供時代から、心身共にかわいくなかった私は、甲羅を経て、ますますかわいくありません。
 ですが、若い頃にはまだきれいごとの裏を見るにはいたってませんでしたね。

 最近はきれいごとはきれいごとと呼ばれるだけの事がある、と先人の賢さに今更ながら感心しています。

  私が身近で、きれいごとだなぁと思ったのは、市立の中学の給食がない横浜市で、給食の要望が出ると、よく校長をはじめとするお偉方から出た不採用理由。

 「お母様方の心のこもったお弁当こそが・・・・・」という常套句。

  どうして、市の予算が割けません、給食のための設備投資は大変で、それをしたら他を削らないと、ってな本当の理由を言ってくれなかったんでしょうね。

  私の子育て時代は、まだ女性は結婚、出産で専業主婦になり、働きたいなら、子供の手がある程度離れてからパート、アルバイトで、やる気があれば正社員に(ただし、零スタートになるので、いろいろな意味で自分より下の上司に使われる覚悟して)というのが主流で、家族は夫婦+子供二人がスタンダードだったので、おえらいさんは、その説明で十分と思ったのでしょうね。

 だいたい、自分は一度も心のこもったお弁当なんて作った事がない人が言っているのが、言葉の裏から透けて見えて、てーんで説得力がない!とかわいくない私は当時から思っていましたが、普通共働きがほとんどとなっている今、大バッシングされかねない同じ理由は使えないでしょうね。

  地元紙を見る限り、給食は無理だけど、弁当を買えるなんて仕組みに移行しつつあるようです。市長が金さえ入れば、でカジノ導入を目論んでいる位ですし、広報を見ても、もはや金がない!は定番で、きれいごとすら不要なのかも知れません。

  脱線ですが、カジノの恐ろしさはバドミントンの選手たちでよーくわかりましたね。努力している事では人一倍の筈の一流選手でも気が緩むとああなるんですから、あんなのが身近で合法であったら、楽して稼げたらと妄想する一般人にはどんだけ危険だか。

  も一つ脱線ですが、非首都圏に行くと「わー、横浜ですかぁ✨」とお世辞半分以上かもですが、羨ましがられる事がありますが、横浜市の公立中学には給食ない!は知られていません(人気の川崎市はじめ、神奈川県では中学の給食がない自治体が他にもあるらしい💦)。給食の有無は子育て中、特に共働き世帯にはかなり大きいポイントですから、ご留意くださいね。

 それに、東京都の特別区と違い、横浜市の区は単なる塊で、区ごとに使えるサービスが違うは原則ない分、実質日本一の人口でシェアすることになりますので、無料や低価格で使える文化的事業など、抽選ものではすごーい競争率になるのもご留意くださいね。

  閑話休題。

  
  きれいごとで何かが表現される時には政治、行政から個人まで、だいたい薄っぺらか、裏に何かある時なんですよね。

  昨今の政治も平和主義にわざわざ「積極的」という形容詞をつけているのが、甚だくさいです。

  積極的にはいい意味もありますが、それは自発的な時の事。わざわざ付ける時には、裏に、何とかしろよという同調圧力があったり、何らかの手出し口出しをする、という意味が込められていることが多いです。

  一億総活躍ってのもくさいですね。

  今週の朝ドラで、暮らしの手帖の花森安治さんをモデルにした花山さんが、一億火の玉という戦時中のスローガンを捻り出すシーンがありましたが、一億だの、総にも、同調圧力、そしてミーハー連帯感に火を付ける魔力があるようで、私には気持ち悪いです。

  一億の中には病気や障がい、その他の理由で活躍出来ない人も少なからずいると思うのですが、そういう方々への思いが感じられず、働かざるもの食うべからず!と叫びたいのをきれいごとで覆っているように見えます。

  という訳で、マスコミで報じられるような大きなきれいごとには気をつけなくてはと思います。

  個人では、京都のぶぶ漬けが都市伝説的になっていますが、ああいうのがきれいごとですかね。

  率直に言うと、やはり、西日本の方に多いと思います。あれは気遣い、洗練という賛辞もありますし、その面はわからないでもないし、外交にはおおいに向いていると思いますが、個人的にはしんどいですな。首都圏でも、山の手でそういう方、何人か見ました。

  江戸っ子や、関西でもいわゆる大阪のオバチャン的な人たちは、ずばりと言って来ますが、裏がない。陰湿さがないし、本人も率直に言っちゃってごめんねという感じで、後々嫌な気持ちにならないのですが・・・・・。

  長く付き合うつもりもない同士なら、その場を取り繕う社交辞令もありでしょうけれど、それなりのお付き合いを考えていた方からの社交辞令は自分は付き合う価値がないと判断されたんだなぁと、私は解釈しています。

  忘れられないのは、いずれも西日本の方で、一つ目は「必ず行く、絶対行く」と言われたあるイベントに寄り付かなかった事。彼女は自分がそう口にした事を二度と言いませんし、その後もお付き合いは続いていますが、心底信頼してはいけないんだろうなぁと内心密かに思っています。

   もう一つは「今度、私が企画して、みんなで行きましょ!」と身を乗り出すようにして言っていたのに、いっかな声がかかる事がなかった知人。その後、彼女と個人的に親しい共通の友人とは旅行していますから、これは典型的な社交辞令、きれいごとだったんですね。この彼女は友人ではなくて、知人と解釈しています。

 西日本ルーツを持ち、親の社交辞令を耳目にし、そういうものがあると認識していた私ですら、時にこういう思いをするのですから、時として関西人は(と十羽ひとからげで言うのもどうかと思いますが、だからこそ、ある組織、集まりの一人の印象って大事なんだよなとも思います)嫌いだぁ!と公言する方がいるのもむべなるかな。

  という訳で、きれいごとには裏がある、それをますます感じてしまう今日この頃、自分はなるべくきれいごとは言わないで済ませたらいいなと思います。