成長途中で発達障がいと分かった長男の家庭内暴力に悩んだ元事務次官が息子殺害に及んだ事件。先日、懲役6年の実刑判決が下ったことに対して、同情の声を見ました。

 が、私には違和感がありました。

 もちろん、娘さんが自死されていたり、年々体力気力が落ちる中、このままでは他人にも何かしでかすのではないかという長男の前途を悲観してという面ではまことに気の毒ではあるのですが、そこだけを見るのは何か違ってるぞと。

  同情している方たちの見解をざっと拾うと、そんな息子がいてどんだけ大変だったかとか、極端な話だと、そんな息子はいなくなって正解などもありました。

 また、それだけ大変な中、よくぞ官僚としてそこまで出世した、どれだけ努力の人なのかという賞賛コメントも見ました。
 ですが、多分、一番苦しんでいたのは、亡くなった長男さんなのではないかと思います。おそらく、好き好んで親に手をあげていたわけではなく、激しい自己嫌悪や罪悪感も抱いていたのではないかと想像します。

 そこを抜きに、親側の忍耐や尽力だけに焦点を当てるのは、多分、ご自身もご家族もおおむね順調に歩んで来られた方たちなのだろうなと想像します。

 同情論の中に見える、どうしようもない息子は絶対悪で、彼を殺めたのはやむを得ないという基調に、私は相模原の事件と同じ、排除の理論を感じてしまうのです。

 相模原の事件は社会の役に立たない重度の障がいを持つ人は要らない!という被告の偏見による犯罪で、今回とは全然違う風には見えます。

 けれども、根っこのところでは社会に役に立たない(時として害をなす存在)は不要!というのは同じだと思います。

 オブラートに包まれてはいるけれど、その考えが多くの人の心の奥深いところにあるのが透けて見えて来て、ぞわぞわと違和感を抱いた次第です。

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