新型コロナウィルスの報道に埋もれてしまいがちですが、今日は東京大空襲から75年、明日は東日本大震災から9年が経ちます。

  空襲に伴う惨事は生前の父も少し語っていました。
 
  今は都会のおしゃれなスポットとして知られる青山通りに5メートルごとくらいに黒焦げのご遺体の山が出来ていたと。

  私が家の中で、ガラスで手を切る大怪我をして大出血するのを見ただけで失神しそうになっていた(母談)と言う父ですら、悲惨な姿になられた方々を見なくてはいけなかった日常があったと言うことです。

  よく知っている青山通りにそんな悲惨な光景が繰り広げられていたと知って、言葉も出ませんでしたし、恐らく父もそれ以上の詳細は語りたくなかったのではと思います。

  母からは都心爆撃の時、今は住宅がびっしりの世田谷区がまだ田園風景が見られた頃に住み、都心が炎で真っ赤になっているのが見えた話を聞きました。

   母だったか祖母だったか、都心から飛んできた灰に、恐らく帯かなにかの模様が浮き出たものがあったのが忘れられないと言っていました。一人娘の母と祖母、共に見ていたのかも知れません。

   母は戦争末期のある日、操縦士の顔がはっきり見える距離から機銃掃射を受け、恐怖に怯えながら校舎の壁に張り付いた、目の前の地面にパンパンと穴が開けられたが、B29の操縦士は笑っていたとも言っていました。

   恐怖のあまり事実に足し前をしている可能性もありますし、事実なら操縦士は明らかに非戦闘員の若い女をからかっていた可能性もありますが、当時の日米関係を思えば狙われた側は死ぬかと思った事でしょう。

   懇意の女医さんが助けを求めて飛び込んで来たが、皮膚が剥がれて垂れていたとも言っていました(その方はのちに我が家を訪ねて来られ、私も2、3回お会いしたことがありました。祖母曰くアリナミンの開発に関わられたとの事)。

       大空襲で父の実家は焼け、その後、どさくさ紛れに土地の所有権が無くなってしまったそうで、父が亡くなった後に相続のために取り寄せた千代田区の戸籍簿謄本には原戸籍は焼失と描かれた表紙がついていました。

  とは言え、祖母も、父のきょうだいたちも(既に戦病死していた伯父も含めて)誰も空襲で命を失わずに済んでのですから、その後の苦労もあったとは言え、まだ幸いな方だったと思います。

     空襲の惨事については、親御さんが戦前に生まれ、もの心がついているか思春期くらいにはなっていた私の世代で、なおかつ親御さんが軍施設や軍需工場のあった地域に暮らしていた人たちは聞かされた人も少なからずいると思います。

  が、その後の日本の華々しい発展により、空襲があったことをはじめとして、戦禍自体が下の世代にはなかなか伝わりにくいです。実際に体験された方々も数少なくなっています。

  両親や祖母が、時折思い出したように語ってくれたものの、私自身も若くて自分の日々に手一杯だし、そんな惨禍を思い起こさせないほどの勢いで経済成長していた日本でしたので、変化に驚く方が勝り、もともとが辛い経験だっただけに、多くを語らず済ませてしまったようです。

  それはそれで幸いでしたが、深掘りしなかったことを今となっては残念に思います。

   そんな中、自身は惨禍を知らないし、戦時中でも惨禍を体験せずに済む境遇にいた人たちの子孫が多くを占める政治家たちにより、あの頃の日本のように戻したいとしか思えない言動が増えているのを憂いています。

   究極に儲かるのは軍需産業だそうです。なんと言ってもほぼ使い切りですから。

   今、軍需用でないと補助金が下りない学術研究もあるそうです。

   また個人の権利の制限も言われ始めています。新型コロナウィルスの蔓延はその格好の口実になりかねないです。

  確かに今は緊急事態ではありますが、かつての国家総動員法のような戦争に駆り立てる方向に行っても、いい思いを出来るのはひとにぎりだけ。痛い思い、辛い思いをするのは道具として使われる庶民です。

  新型コロナウィルスで大変な時ですが、だからこそ、今日は空襲で亡くなられた方々の慰霊をすると共に、かつてあった事、それがどういう道筋でもたらされたのか立ち止まって考えたいと思います。