昨晩家を出て、未明に八ヶ岳に着きました。
雨上がりの朝を迎えましたが、次第に晴れ。どこへ行こうかな〜。
フィギュアスケートの野辺山合宿で有名なテイサンロッジを右に見ながら国道141号線をドライブ。もちろん、運転は地域限定免許の私ではなく夫です。
山種美術館で作品を見られる奥村土牛画伯の記念美術館があるのに一度行ってみたかったので、本日の本命はそちらに。

雨上がりの朝を迎えましたが、次第に晴れ。どこへ行こうかな〜。
フィギュアスケートの野辺山合宿で有名なテイサンロッジを右に見ながら国道141号線をドライブ。もちろん、運転は地域限定免許の私ではなく夫です。
山種美術館で作品を見られる奥村土牛画伯の記念美術館があるのに一度行ってみたかったので、本日の本命はそちらに。

戦時中画伯が疎開していたご縁で素描の寄贈を受けて画伯が101才で亡くなる直前に開館したそうです。
すぐそばにある黒澤酒造の、いわば迎賓館として大正末期から昭和のはじめまで掛けて建てられた建物は贅をこらした日本建築で、当時の村の年間予算の3倍近くも掛けて建てられただけあって、風格が有ります。
展示品は素描だけなので、もの足らない向きもあるかも知れませんが、確かなデッサン力とやわらかな色合い、若しくは彩色無しで、肩の凝らないほわっと感がありました。
若い頃は結構苦労して、いわゆる晩年運の人だった画伯の人となりが伝わって来る高齢になって作品のためにモデルの舞妓を凝視する写真や、文化勲章などの展示もありました。
昔懐かしい、ちょっと歪んだガラスや、薄氷の表面のような模様ガラスも美しく、二階から見えるお庭も風情がありました。視界の良い日にはきっと八ヶ岳が見える事でしょう。
こちらに置いてあった案内を見て国道沿いのジモティ御用達、夜は居酒屋になるらしい庶民的なお蕎麦屋さんでランチタイム。チラシを見せたらアカシアの天ぷらいただけましたが、サクサクで美味でした。
食後、また土牛記念美術館の方に戻り、黒澤酒造の資料館を見せていただきました。

こちらは古典的な酒造りの様子を人形で教えてくれますが、かつて使われていた巨大な蒸し器や原酒を漉す舟と呼ぶ装置なども展示してあれば、テレビ局が時代考証のために借りたがりそうなミシンやら時計、ラジオにブリキの玩具などもありました。
二階には様々な酒器もあり、コレクションとガラクタの違いは何かと言うのがよ〜く分かります。
みんながみんな断捨離にいそしんでくれたら、私たちは民具や懐かしの品々を楽しむ事は出来ないのでありますよ。
収容スペースがあり、かつ死蔵したり、ゴミ屋敷にせず、コレクションや展示に出来る人、ま、結局はお金持ちや度はずれて物の整理や維持管理がうまい人になるかとは思いますが、頑張って後世にいろいろなものを伝えていただきたいと思います。
無料で見せていただける展示は素朴であたたかみがあって、何だか楽しくなる内容でした。最近人気の河鍋暁斎の画もありましたが、お酒の神さまが類人猿とは知らなんだ(ショウジョウと言い、完全に擬人化されていますが、もともとはおさるさんだったらしい)。
さて、今年は異様に夏が長いから、まだ間に合うかも?でコスモス街道に実に久しぶりに行きたくなりましたが、その前に寄ってしまいました。
重要文化財の旧中込学校。明治期の疑似洋風と呼ばれた建築物の代表の一つで、疑似洋風の学校では松本の開智学校が有名ですが、中込学校の方がちょっと先輩だそうです。

京都の学校博物館に行った時に、京都の人たちが寄付を集めて学校を建てた自腹の精神に感心しましたが、かつて学問に長けた地域として有名だった信州、この中込学校も地域からの寄贈を受け学校が建ったそうです。
エキゾチックな尖塔を持ち、窓の向こうの景色が不思議に色づいて見える二階、ギアマン校舎と呼ばれる由縁となった丸いカラフルなガラス窓に明治の子どもたちはどんなにワクワクした事でしょう。

私の世代くらいから、勉強はしてやるもんで、勉強してりゃあ親は有り難がるのが普通になりましたが、明治の子どもたちは学校に行きたい、勉強したい、させてもらえたら、どんなにか嬉しいものだったろうなぁと想像しました。
展示品の修了証の名前の前に平民と書いてあるものが多かったのも目にとまりました。
先に訪れた二カ所もそうでしたが、ここの受付の方もとても親切で、かつて小海線を走っていたC56とガソリン列車の展示を快く見せてくれました。地元の少年二名が「大人が見に来るすきを見て入る」そうで、学校からの見学等で何度も見ているのに、またまた来たくなる魅力があるようです。
私、高校時代に高原のポニー号としてC56がシュッポシュッポと走っていましたが、記録によると、たった12回限りの特別列車だったようで、もっともっと走っていたように思っていたので、至極短期間だったのにびっくりしました。
受付の人に伺うと、お世話をする人が減ってしまった(高齢化の為でしょう)ので、以前ほどの見事さはないと言う話でしたが、国道254号線の内山峡のコスモス街道は、お祭りは先週末で終わってしまったようですが、まだまだ充分に楽しめる美しさでした。


この前行った時には、長男、二男が小さくて、両親も祖母も元気だったなぁと歳月の流れを感じました。
新海神社や龍岡城五稜郭跡などは寄る時間が有りませんでしたが、それは今度のお楽しみ♪
なお、佐久は明治半ばの秩父事件で蜂起した秩父困民党の人々が逃げ込んだ土地で、地元名士の自民党代議士の井出一太郎さんのご兄弟の井出孫六さんが小説に書いていますが、冒頭で困民党蜂起の動きにも気付かずのんきにかっぽれを踊っている、いかにもアホな描かれ方をしている名主、福島七兵衛は私の父方の曾祖父らしいです(汗)。
余談ながら、あっちでもこっちでも、あほんだら扱いされてる先祖が父方にはたんとおりまして、我が身を思うになれの果てとか、挙げ句の果て感がた〜っぷり…………と、佐久のぶらぶらドライブでとんでもない事を思い出してしまったのが、本日唯一の難点なのを除けば、楽しい1日でありました。o(^▽^)o
すぐそばにある黒澤酒造の、いわば迎賓館として大正末期から昭和のはじめまで掛けて建てられた建物は贅をこらした日本建築で、当時の村の年間予算の3倍近くも掛けて建てられただけあって、風格が有ります。
展示品は素描だけなので、もの足らない向きもあるかも知れませんが、確かなデッサン力とやわらかな色合い、若しくは彩色無しで、肩の凝らないほわっと感がありました。
若い頃は結構苦労して、いわゆる晩年運の人だった画伯の人となりが伝わって来る高齢になって作品のためにモデルの舞妓を凝視する写真や、文化勲章などの展示もありました。
昔懐かしい、ちょっと歪んだガラスや、薄氷の表面のような模様ガラスも美しく、二階から見えるお庭も風情がありました。視界の良い日にはきっと八ヶ岳が見える事でしょう。
こちらに置いてあった案内を見て国道沿いのジモティ御用達、夜は居酒屋になるらしい庶民的なお蕎麦屋さんでランチタイム。チラシを見せたらアカシアの天ぷらいただけましたが、サクサクで美味でした。
食後、また土牛記念美術館の方に戻り、黒澤酒造の資料館を見せていただきました。

こちらは古典的な酒造りの様子を人形で教えてくれますが、かつて使われていた巨大な蒸し器や原酒を漉す舟と呼ぶ装置なども展示してあれば、テレビ局が時代考証のために借りたがりそうなミシンやら時計、ラジオにブリキの玩具などもありました。
二階には様々な酒器もあり、コレクションとガラクタの違いは何かと言うのがよ〜く分かります。
みんながみんな断捨離にいそしんでくれたら、私たちは民具や懐かしの品々を楽しむ事は出来ないのでありますよ。
収容スペースがあり、かつ死蔵したり、ゴミ屋敷にせず、コレクションや展示に出来る人、ま、結局はお金持ちや度はずれて物の整理や維持管理がうまい人になるかとは思いますが、頑張って後世にいろいろなものを伝えていただきたいと思います。
無料で見せていただける展示は素朴であたたかみがあって、何だか楽しくなる内容でした。最近人気の河鍋暁斎の画もありましたが、お酒の神さまが類人猿とは知らなんだ(ショウジョウと言い、完全に擬人化されていますが、もともとはおさるさんだったらしい)。
さて、今年は異様に夏が長いから、まだ間に合うかも?でコスモス街道に実に久しぶりに行きたくなりましたが、その前に寄ってしまいました。
重要文化財の旧中込学校。明治期の疑似洋風と呼ばれた建築物の代表の一つで、疑似洋風の学校では松本の開智学校が有名ですが、中込学校の方がちょっと先輩だそうです。

京都の学校博物館に行った時に、京都の人たちが寄付を集めて学校を建てた自腹の精神に感心しましたが、かつて学問に長けた地域として有名だった信州、この中込学校も地域からの寄贈を受け学校が建ったそうです。
エキゾチックな尖塔を持ち、窓の向こうの景色が不思議に色づいて見える二階、ギアマン校舎と呼ばれる由縁となった丸いカラフルなガラス窓に明治の子どもたちはどんなにワクワクした事でしょう。

私の世代くらいから、勉強はしてやるもんで、勉強してりゃあ親は有り難がるのが普通になりましたが、明治の子どもたちは学校に行きたい、勉強したい、させてもらえたら、どんなにか嬉しいものだったろうなぁと想像しました。
展示品の修了証の名前の前に平民と書いてあるものが多かったのも目にとまりました。
先に訪れた二カ所もそうでしたが、ここの受付の方もとても親切で、かつて小海線を走っていたC56とガソリン列車の展示を快く見せてくれました。地元の少年二名が「大人が見に来るすきを見て入る」そうで、学校からの見学等で何度も見ているのに、またまた来たくなる魅力があるようです。
私、高校時代に高原のポニー号としてC56がシュッポシュッポと走っていましたが、記録によると、たった12回限りの特別列車だったようで、もっともっと走っていたように思っていたので、至極短期間だったのにびっくりしました。
受付の人に伺うと、お世話をする人が減ってしまった(高齢化の為でしょう)ので、以前ほどの見事さはないと言う話でしたが、国道254号線の内山峡のコスモス街道は、お祭りは先週末で終わってしまったようですが、まだまだ充分に楽しめる美しさでした。


この前行った時には、長男、二男が小さくて、両親も祖母も元気だったなぁと歳月の流れを感じました。
新海神社や龍岡城五稜郭跡などは寄る時間が有りませんでしたが、それは今度のお楽しみ♪
なお、佐久は明治半ばの秩父事件で蜂起した秩父困民党の人々が逃げ込んだ土地で、地元名士の自民党代議士の井出一太郎さんのご兄弟の井出孫六さんが小説に書いていますが、冒頭で困民党蜂起の動きにも気付かずのんきにかっぽれを踊っている、いかにもアホな描かれ方をしている名主、福島七兵衛は私の父方の曾祖父らしいです(汗)。
余談ながら、あっちでもこっちでも、あほんだら扱いされてる先祖が父方にはたんとおりまして、我が身を思うになれの果てとか、挙げ句の果て感がた〜っぷり…………と、佐久のぶらぶらドライブでとんでもない事を思い出してしまったのが、本日唯一の難点なのを除けば、楽しい1日でありました。o(^▽^)o