東日本大震災から3年経ちました。

 あの日、二男の卒業式で、舞浜のテーマパークのオフィシャルホテルで華やかな雰囲気を味わっていました。

 駐車場料金が掛からないということもあって、ホテルの中をチェックしたりして、直ぐに出なかったこと、加えて、地理に不案内なため、交通標識の不明瞭な方向指示にしたがって、首都高の入り口にたどり着くのにかなりロスしてしまったのが、8時間ものドライブにつながってしまいました。

 揺れたのが、湾岸線の葛西あたりでしょうか。てっきりパンクしたと思った位のふらふらで、運転している夫に「パンクだ、パンクだ」と騒いだのですが・・・ゆるい下り坂の路面が波打っていました。

 多くの車が路肩に寄せ、幸いに、交通量も少なく、事故にもならずに済んだのですが、携帯の鉄塔がゆさゆさ揺れて、向こうから、黒煙と炎が見えました。お台場あたりかと思いましたが、後からコスモ石油の千葉の製油所が火元だったらしいと知りました。

 みんなが路肩に車を寄せている時でも、爆走して通り過ぎる車が数台ありましたが、彼らは首都高の通行止めの前に突破できたのでしょうか? それとも、大急ぎの結果、何か起きたのでしょうか?

 東京湾地下トンネルで通行止めになり、もしも、浸水したら最後だなと、恐怖を感じました。
 トンネルにいる間中、どうチューニングしようとも、首都高の緊急連絡という放送しか入らず、今、どんなことが起きているのか分からないのが1番こわかったです。

 一時間以上の足止めだったと思いますが、ようやく東扇島からおりるように指示があり、地上に出て、ラジオが聞こえるようになり、ホッとしたのもつかの間、信号機もすべてつかなくなっていての大渋滞に見舞われました。

 暮れていく中、どの家も、工場も、コンビにも、ファーストフードも明かりがつかない。すべて閉店しているようです。反対車線も大渋滞だけれど、水道管が壊れているらしく道路に噴水がおきているところもある。ひと気の少なくなった工場街では、ヘルメットを被って徒歩で移動している人たちの姿も見られました。

 ラジオから聞こえてくるのは、厳しい声で被害の状況を伝えるアナウンサーの声だけ。それでも、帰宅するまでは、まさか、あそこまでの被害が起きているとは思いませんでした。

 ほぼ暮れた横浜駅東口では、大勢の人たちが歩いて南に向っていました。車に誰か乗せてあげられたらいいとは思いましたが、大勢の人たちがいる中では、そうも行きません。せめても、誰か知り合いがいないかと探しましたが、見当たらず、トイレに行きたくなりながら、とにかくのろのろと移動しました。

 関内の界隈では、風情があると言われるに違いないレンガ造りの入り口が壊れている箇所もありました。

 ようやく電気が点いている建物を見たのは、山下公園あたりだったでしょうか。ローソンでお手洗いを借りられて、本当に感謝しました。大勢がレジに並んで買い物をしていました。

 自宅に近づくに連れて、大渋滞は解消し、むしろ閑散として来ましたが、往路1時間半弱が、復路は8時間強かかって帰宅すると、テレビに信じられないような光景が映っていました。長男が、さっきまで停電で、暗くて、寒くて、こわかったとこぼしましたが、近所の方に声をかけていただいていたようです。

 幸いに長男は自宅で、二男は耐震強度も食料や毛布なども十分なホテルにいたので、一番危ないのは私たち夫婦でした。携帯は彼らからはたまにメールや電話がつながるものの、一度切れるとつながらない状態で、停電のためにキープしている蝋燭の場所も教えてやれないでいました。

 あとは、皆さまもご存知のような日々が始まりました。

 私たちはくらしのペースが戻るのは早かったですが、東北地方や千葉、茨城の沿岸地域、そして、とりわけ原発事故のあった地域のくらしは、未だに元どおりとは程遠いです。

 一方で、昨今の日本の景気回復と言いながら、大事な何かを切り捨てて、イケイケドンドンの再来を望む様子があるのが気になります。

 亡くなられた多くの方々が、本当の意味で安らかに眠れるように、そして、今困難な状況にいらっしゃる方々が希望を持てる世の中になりますようにと、黙祷の時間に心から祈りました。

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