数日前から障子紙がペラペラし始め、開け閉めでひっかかるようになりました。テープで借り留めしても、もはや止まらない。
こういうのを放置しておくと、汚部屋度が一気に上昇します。
そこで買い置きの障子紙を取り出して張替えだ!
こういうのを放置しておくと、汚部屋度が一気に上昇します。
そこで買い置きの障子紙を取り出して張替えだ!
こどもの頃は、古くなった障子紙を水で濡らして剥がし、桟を乾かして、刷毛で布海苔を塗って、細い幅の障子紙を丁寧に貼る、というなかなかの大仕事を大人がしているのを見ていました。
素材的にも、昔ながらの障子紙の方が何かとよろしいようです。
が、狭い集合住宅暮らしを言い訳に、外した障子は即、足元の畳の上に横たえさせ、中温にしたアイロンを桟に当てて、スルスルというか、バリバリと剥がして、その後にまたアイロンで貼るという、張替えというより、貼付けをしております。
邪道だよね、とは思いますが、昔ながらの丁寧なやり方をしようとしておおごとになり、それを想像して億劫になり先延ばしするのが必定の怠惰な性格なので、丁寧か、邪道かの択一ならば、後者を取ります。
日々の暮らしで、丁寧に、丁寧に、従って素材的にも方法的にも、そして、うまく出来れば仕上がり的にも、さらには多分に環境に良いだろうという方法に憧れはするのですが、実際は邪道を選ばざるを得ない事は少なからずあります。
アイロン障子紙やら襖紙以外にも、例えば、上等な革素材の靴を長く大切に履く、というのも私にはハードルが高く、使い捨てにならざるを得ない合皮の靴のオンパレードですし(バッグについてはなるべく革使いの日本製をと思いますが、重さに耐えかね主素材は化学繊維だったりします)、食器のメインは邪道ではないですが、合理的過ぎるかもなコレールだったりします。
だからこそ、自分が出来ない丁寧なこと、ものに憧れ、古都に伝わる本物や民芸運動のような手仕事に憧れるんでしょうね。
私の障子の張替えは、緋毛氈に和服風で和食っぽいものを供するなーんちゃって京都みたいなものですが、形骸化しても、障子のある暮らしは続けたいのです。
経済面、精神面、時間面などなど、何らかの理由で、暮らし向きに余裕がない時に何を取り、何を捨てるか、そこに個性が現れると思いますし、自分は出来ない憧れが先々まで伝わるように、たまには奮発する、それでいいかな、と思う昨今です。
素材的にも、昔ながらの障子紙の方が何かとよろしいようです。
が、狭い集合住宅暮らしを言い訳に、外した障子は即、足元の畳の上に横たえさせ、中温にしたアイロンを桟に当てて、スルスルというか、バリバリと剥がして、その後にまたアイロンで貼るという、張替えというより、貼付けをしております。
邪道だよね、とは思いますが、昔ながらの丁寧なやり方をしようとしておおごとになり、それを想像して億劫になり先延ばしするのが必定の怠惰な性格なので、丁寧か、邪道かの択一ならば、後者を取ります。
日々の暮らしで、丁寧に、丁寧に、従って素材的にも方法的にも、そして、うまく出来れば仕上がり的にも、さらには多分に環境に良いだろうという方法に憧れはするのですが、実際は邪道を選ばざるを得ない事は少なからずあります。
アイロン障子紙やら襖紙以外にも、例えば、上等な革素材の靴を長く大切に履く、というのも私にはハードルが高く、使い捨てにならざるを得ない合皮の靴のオンパレードですし(バッグについてはなるべく革使いの日本製をと思いますが、重さに耐えかね主素材は化学繊維だったりします)、食器のメインは邪道ではないですが、合理的過ぎるかもなコレールだったりします。
だからこそ、自分が出来ない丁寧なこと、ものに憧れ、古都に伝わる本物や民芸運動のような手仕事に憧れるんでしょうね。
私の障子の張替えは、緋毛氈に和服風で和食っぽいものを供するなーんちゃって京都みたいなものですが、形骸化しても、障子のある暮らしは続けたいのです。
経済面、精神面、時間面などなど、何らかの理由で、暮らし向きに余裕がない時に何を取り、何を捨てるか、そこに個性が現れると思いますし、自分は出来ない憧れが先々まで伝わるように、たまには奮発する、それでいいかな、と思う昨今です。