虎穴に入らずんば虎児を得ず、なんて大袈裟な事ではありませんが、気になりながら、なかなか歩を踏み出せないでいたご近所さんにご挨拶に伺いました。
一軒めは、数年前から自宅敷地の道路際にお野菜あげますのカゴを置いている方。
一度お礼のメモを置いた記憶がありますが、あやふやだし、夏の間は何回かお世話になるので、思い切ってお尋ねしました。
一軒めは、数年前から自宅敷地の道路際にお野菜あげますのカゴを置いている方。
一度お礼のメモを置いた記憶がありますが、あやふやだし、夏の間は何回かお世話になるので、思い切ってお尋ねしました。
初対面の奥様でしたが、来意を説明すると、大変に喜んでくださいました。
4年間出していて、何らかの形でお礼を言われたのは初めてです、とのお言葉に、やはりメモは飛んだか、置いたつもりで置かなかったのかな、いずれにしろもっと早くお礼を申し上げるべきだったと反省。
中には野菜のそばに自分がいても、目も合わせず取るものだけ取って去る方がいるとか。
人様に差し上げる分はいいのをより抜き、自宅用はいまひとつの野菜を調理しながら、一体自分は何をやってるんだろうと凹まれる事もあったそうです。
私自身もそうですが、人はとかく文句、クレームはしっかり言うが、感謝はなかなか示さない傾向があります。でも、感謝の気持ちこそしっかり伝えるべきですね。反省しかりでした。
もう一軒は帰られたかと思ったら明かりが見えたお隣りさん。オーナーの先代と実家が親しくさせていただき、私も先代にはお世話になりました。
最初の訪問は人の気配はあるけれど反応無し。留守録に吹き込んだものの、これまた反応無し。うーむ、とあらぬ憶測が湧きそうなのを押さえ、もう一度翌日訪問。
すると、やっと出て来られた方は年配の女性で難聴傾向があるというのがわかり、なるほどでした。自分の狭い知見から、物事を悪い方へ悪い方へと考えるものではないな、と再確信。
この方はオーナーと船旅で知り合い、以降、オーナーと船旅仲間でこのお宅を楽しく使い、ただ今はひとり残り執筆中との事でした。
ほんのご挨拶くらいのつもりでしたが、おあがりくださいの言葉に甘えて、懐かしいお宅に再会です。もう亡くなられた老夫婦のお写真や持ち物もあり、こういう間取りだったなと思い出しました。
いろいろお話をさせていただき、この方が広島で被爆され、ひとり行脚でヨーロッパをはじめとする何ヶ国もを何回も訪問され、平和、反核の語りべをなさっていると知りました。
原爆で被爆されたり、家族全員を亡くされたり、義父のようにすぐに処理に入り、恐らくは放射線を浴びた人まで、何人かお会いする事はありましたが、義父ですら、辛すぎて最晩年にほんの少し語るだけで、後の方は一切語らないか、冷静ではいられない状態で、初めて当事者でしっかり語る方と直接お話する貴重な機会をいただき、気づいたら4時間くらい経っていました。
被爆した時は多感な14歳、戦前、戦後を過ごされ、今の日本の方向性に大変な危機感を抱いておられました。
ご本をいただき、帰宅後、早速拝読しましたが、今まで被爆された方からの聞き書き、記録などは読んだ事がありますし、テレビを通しての語りは拝見した事がありますが、それらは感動や憤りを感じさせてくれる力作、労作ではあっても、やはり文字数や時間に限りがありました。
ご本人の一人称で語られた文章は力がありました。地獄のような有様、悲哀としか言えない弟さんをはじめとする大切な人たちの逝去、原爆投下で人生を歪められてしまった人たち。そして、多くを語られることがない非人道的なアメリカの研究機関のふるまいなど、読みはじめたら止まりませんでした。
読んだ方が不思議と明るいとおっしゃるんですよ、とおっしゃっておられました。被爆以来、一日として健康体でいた事はなく、死に瀕する事も度々だった著者が、次第に前を向き、自らの天命を感じ、背筋を伸ばして世界を歩くに至る道程に元気をいただけるからではないかと読了して思いました。
語られる程に生き生きと美しくなられ、大切な事をまだまだ伝えていただける方だと思いました。
実に小さな勇気ではありましたが、踏み出してよかった!
4年間出していて、何らかの形でお礼を言われたのは初めてです、とのお言葉に、やはりメモは飛んだか、置いたつもりで置かなかったのかな、いずれにしろもっと早くお礼を申し上げるべきだったと反省。
中には野菜のそばに自分がいても、目も合わせず取るものだけ取って去る方がいるとか。
人様に差し上げる分はいいのをより抜き、自宅用はいまひとつの野菜を調理しながら、一体自分は何をやってるんだろうと凹まれる事もあったそうです。
私自身もそうですが、人はとかく文句、クレームはしっかり言うが、感謝はなかなか示さない傾向があります。でも、感謝の気持ちこそしっかり伝えるべきですね。反省しかりでした。
もう一軒は帰られたかと思ったら明かりが見えたお隣りさん。オーナーの先代と実家が親しくさせていただき、私も先代にはお世話になりました。
最初の訪問は人の気配はあるけれど反応無し。留守録に吹き込んだものの、これまた反応無し。うーむ、とあらぬ憶測が湧きそうなのを押さえ、もう一度翌日訪問。
すると、やっと出て来られた方は年配の女性で難聴傾向があるというのがわかり、なるほどでした。自分の狭い知見から、物事を悪い方へ悪い方へと考えるものではないな、と再確信。
この方はオーナーと船旅で知り合い、以降、オーナーと船旅仲間でこのお宅を楽しく使い、ただ今はひとり残り執筆中との事でした。
ほんのご挨拶くらいのつもりでしたが、おあがりくださいの言葉に甘えて、懐かしいお宅に再会です。もう亡くなられた老夫婦のお写真や持ち物もあり、こういう間取りだったなと思い出しました。
いろいろお話をさせていただき、この方が広島で被爆され、ひとり行脚でヨーロッパをはじめとする何ヶ国もを何回も訪問され、平和、反核の語りべをなさっていると知りました。
原爆で被爆されたり、家族全員を亡くされたり、義父のようにすぐに処理に入り、恐らくは放射線を浴びた人まで、何人かお会いする事はありましたが、義父ですら、辛すぎて最晩年にほんの少し語るだけで、後の方は一切語らないか、冷静ではいられない状態で、初めて当事者でしっかり語る方と直接お話する貴重な機会をいただき、気づいたら4時間くらい経っていました。
被爆した時は多感な14歳、戦前、戦後を過ごされ、今の日本の方向性に大変な危機感を抱いておられました。
ご本をいただき、帰宅後、早速拝読しましたが、今まで被爆された方からの聞き書き、記録などは読んだ事がありますし、テレビを通しての語りは拝見した事がありますが、それらは感動や憤りを感じさせてくれる力作、労作ではあっても、やはり文字数や時間に限りがありました。
ご本人の一人称で語られた文章は力がありました。地獄のような有様、悲哀としか言えない弟さんをはじめとする大切な人たちの逝去、原爆投下で人生を歪められてしまった人たち。そして、多くを語られることがない非人道的なアメリカの研究機関のふるまいなど、読みはじめたら止まりませんでした。
読んだ方が不思議と明るいとおっしゃるんですよ、とおっしゃっておられました。被爆以来、一日として健康体でいた事はなく、死に瀕する事も度々だった著者が、次第に前を向き、自らの天命を感じ、背筋を伸ばして世界を歩くに至る道程に元気をいただけるからではないかと読了して思いました。
語られる程に生き生きと美しくなられ、大切な事をまだまだ伝えていただける方だと思いました。
実に小さな勇気ではありましたが、踏み出してよかった!