7月に最初からなかったと思えば物欲に振り回されるのが減る由を書きましたが、機会についても同様の現象が起こりますね。
  
  今回、高山に泊まり、今は八ヶ岳なのですが、自宅にいたらしてしまいそうな事も、最初から出来ないとわかっているので、葛藤が生まれません。

 手っ取り早い例えでは、テレビ視聴と録画。

 自宅にいると、朝、新聞のテレビ欄を見て、めぼしい番組があると、ついつい録画予約してしまいます。

 何となればオンエア中に見られなかったり、中断される可能性があるから。

 そうしてさえ、後日、放映済みの見逃し番組がよかったなんて評を新聞やネットで目にして、がっかりしたり、損したぁ! 意識にプチッと苛まれたりします。

 しかし、旅先ではそもそも録画機器がない。特に八ヶ岳では地元民向けのケーブルテレビを引かないと四局しかなく、録画したい番組自体が放映されない!はしょっちゅうです(特にフィギュアスケート関係)。

  はじめの頃は若干の葛藤もありましたが、今では慣れて「知らぬが仏」です。

  また、夏休み前に自宅のブルーレイ録画機がおかしくなり、録画に失敗したり、再生時の早送りや、ダビング時のためのCMと本放送の間の仕切りを付けたりが出来なくなりました。

  となると、録画自体への執着が著しく減りました。冗長過ぎる時に飛ばして見られないならもぉいいや、というレベルの番組はチラ見して削除するようになりました。

  人は最初から出来ない、無理とわかっている事には葛藤すらしなくなるのですね。

  おそらく身分制度がガチガチな国や、出国の自由がない国だと、最初から壁が見えていますから、命を賭けてもやりたい!という覚悟のない人たちは、日々の生活にさえ困らなければ、むしろ心穏やかでいられる事でしょう。

  これ、楽なんですが、本来は老境で抱くべき心がけだと思います。

  歳月を歩んで来て、己の限界や出来る範囲がわかっている人、つまり私などはまさにそのステージ上にいるのですが、若い人が同じだと、ちょっと、いや、だいぶまずいんではないかと思います。

  私自身の知らぬが仏的な事例としてテレビと録画をあげましたが、何かを探求する、真理を求めると言った事柄でも同じ現象が起こり得ることと思います。

  今の時代、物欲や探求心はむしろ老境に入っている年代の方が盛んで、若い人たちはちんまりとまとまっている傾向を感じます。それだけ生活が大変、余裕がないと言うのもあるのでしょうね。

  書きはじめには、無い(出来ない)事で葛藤しないで済むメリットを書こうと思っていたのですが、書いているうちに、中高年にはいいけれど、若い人たちまでが物心両面で葛藤しなくなるのは、ちとよろしくないぞと思われて来ました。

  私には、今の政治が目指しているのは、国民を老境的な、限界が見えているからの、葛藤なし状態、引いては思考停止状態に持って行く事のように思われてなりません。

  それに対してはむしろシニアが異論唱え、若者や壮年者の中には是としている人たちが少なからずいるのも感じます。

  誰が糸を引いているのかはわかりませんが、風通しが悪くなっている今の風潮を誰かがうまく築き上げて来たのを感じます。

  思考停止が招く事は、良くて長い沈滞、悪ければ右へならえで、本来なら人としてしてはいけない事までしてしまう事態を招くのは歴史の語るところです。

  無い事に対し、葛藤しないのは、もっぱらサービスも含める物欲や、それをもたらす過剰な情報だけに留めないと危ない世の中へと猛進しそうで心配な昨今です。