今日も寄贈型リサイクルショップにいくつか持ち込みました。
以前書いたように、鍵付きのInstagramアカウントにひっそりとアップロードして、そこで供養気分を味わうと、案外さっぱり忘れられるのです。
が、帰宅してから、今日寄贈したものをアップしていて、あーれーとなりました。
細々したものの写真は撮っておいたのですが、何と、バッグ二点、スマホの中を探しても出て来ません、写真が😅
自分の記憶の中では、持ち手とか、パッチワークの柄とか、ゴブラン織風の生地に焦点を当てて撮影したことが強く記銘されているからこそ、ともすれば撮り忘れの多い小物に対してするような念のための再撮影もせず、とっとと出して来たのでした。
でも無い、無い!
撮った記憶があるのに無い。撮ろうとして、光の具合やら背景がイマイチで、また今度!とストップしちゃったのでしょうか?
あんなにありありと記憶に残っているのに無いのが大ショック!
そういえば、昨年、晩秋の寒くなり始めた頃、夜中に目が覚め、あ、生協の品物引き取り忘れてた!と慌てて服を着替えて、外に出て、いつも配達場所になっている近所の知人宅前に行ったら、空の箱だけが置いてあり、あー、知人が自宅で預かってくれたんだ、明日お詫びしなきゃ!
と意気消沈して帰宅。もう一度寝る前にトイレ行っとこ!で、座ってトイレのカレンダーを見た瞬間、今日は配達日じゃなかった、明日じゃん!
と気付き、さらに意気消沈。というか、こういうのが認知症の走りなのか、とかなり落ち込みました。夜中に着替えて、寒い外に出て、そのうちに徘徊始めたら大変だわ😰
今日のは、それの次くらいにショックです。どこでどう記憶を書き換えているのか。
ご高齢の方が、食後直ぐに、食べてないと言ったり、自分でどこかに置いたのに、取られた、盗まれた、というのも、この手の記憶の書き換えでしょうか。
もうひとつ困るのは、供養感無しに処分したもの程、脳裏にこびりつきがち、という事。今までもきちんと吟味せず、安直な処分をしたものは、脳内で結構存在感を示すことが多かったです。まるで、ものの幽霊みたいに、時折、妙な執着心が湧くのが難でした。
とは言え、記憶力の衰えは、こういう執着心も薄れさせてはくれるようで、今問われたら、過去に手放し、それがしばらく頭に浮かんでしまったのがどんな物だったかも思い出せないのはありがたいことではあります。
記憶力が怪しいなら、まずは自分のいやな記憶、辛い記憶からあやふやになるのが望ましいです。
でも、自分以外の人の辛い経験や、歴史的に反省すべき記憶は失っちゃあいけませんね。