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  今日は防災の日。97年前、関東大震災が起きた日です。

  写真は先日書いた誕生日記念(?)に片づけをしていたら出て来た、祖母の娘時代の日記の冒頭部です。

  震災当日は書くどころではなく、少し落ち着いてから書いたものと思われます。

  割合と、整理片付けの上手な人でしたが、このノートだけは取っておいたという事は、後世に伝えたい気持ちがあったのではないかと思います。

 以下、一部読みづらいところは想像で補っていますが、当時書かれたままの文章で転記してみます。行間はあいているものの、句読点はほぼ無しで、続けて書いてありますが、読みやすいように分かち書きしました。

 長文なので、分けて転載したいと思います。
  
 九月一日 ああこの日にて 東京がわずか一日であわれなはいとなった日である。おぼえいい日九月一日こそ・・・

 丁度私は分家の方で勉強をして居た 一しんに英語の本をよんで居ると、急に家がひっくりかへったかと思ふ程ゆれ出した
 
 私はおどろいてたてひざをして耳をすませた 

 だんだんひどくなるので本箱につかまったけれど 本箱がたほれさうになるので今度は縁に出て 柱につかまった

 そしてゆるくなるのをまった

 しばらくしてすこしゆるくなったので庭に出た 物がおちたりこわれたりする音を耳にしながら!

 叔母さん叔母さんとさけびながら本家にころげこんだ 叔母さんはまっさほになりながらお座敷の真ん中に座って居らっしゃった
 
 私はひょろひょろしながら叔母さんにしがみついた

 ねいやも庭石にしがみついていたのをはなしてとんできてやはり叔母さんにつかまった

 おばさんは大丈夫大丈夫といって居らしっしゃる後から家がめきめきとすごい音がし どさんどさんと壁のおちる音 物がこわれる音 もういきた気持はなかった

 叔母さんは死ぬのなら三人いっしょに死にませうとおっしゃった時はあふれる涙をどうすることも出来なかった
 
 やふやふしづまった後 私どもは外の様子を見に出た
 
 すると皆はもうあき地やよそのはたけにかたまっていらっしゃった。

 私共もこわいので叔母さんをせかして岡野さんの畠にはいらしてもらった 

 するとじゃんじゃんじゃんとすりばんがなったかと思ふと又もやひどい地しんがした

 皆はただひめいをあげてやたらに草やなすびの木につかまった
 
 やうやくおさまってやれやれと立あがった時はもう三方から真っ黒な煙が立ちあがった

 もう私の胸はいたづらにどうきをうつばかりであった 

 其のうち またあまりたいしたのではないがゆれて もう泣くにもなかれづうらめしげにときの聲をあげるやうな黒煙を見つめるばかり・・・。

 すると女中があらおかへえりになりましたとうれしさうな聲をだしたので私むこうを見ると 叔父さんがつかれた顔してかへって居らっしゃった

 叔母さんを始め皆の顔は始めてあん心の色がみえた 時は三時頃であったらう

 まだ皆ごはんをたべないので押谷さんと小田との間の路じにむしろをひいて野宿することになった

 畳二枚をしいてとういすやいすをもってきてそろそろうめぼしのおかずでごはんをたべはじめた

 すると又もやひどい地しんがした

 もう私共はやたらに叔父さんにしがみついた

 (続く)

※注

 当時祖母が住んでいたのは今の文京区大塚界わいです。当時はまだ畑や空き地もあったようで、震災による大火災が発生後、密集度の高い地域と違って延焼を免れたようです。

 祖母の生家は若狭小浜の開業医ですが、母の妹夫妻(この文中の叔父夫妻)のもとに兄とともに寄留して、東京の学校に通っていました。当時「小浜は田舎で充分な教育が受けられない」と親から聞かされたらしいですが、大人になって気付いたそうです。あまり暮らし向きが豊かではなかった妹夫妻に寄留を口実にお金を送るというのがあったのではないかと。

 ちなみにこの叔母は暮らし向きはさほど豊かではなくても、教養があって心根もよく、祖母は終生慕っておりましたし、叔母の子どもであるいとこたちとも長く交流が続きました(私、祖母のいとこのお子さんの一人と未だに賀状のやりとりをしています)。

 とはいえ、当時はちょっとした家には女中さんがいたり、ねえやという子どものお世話係みたいな雇人がいました。童謡赤とんぼで唄われている「ねえやは十五で嫁に行き」というねえやですね。

 行儀見習いしつつ、嫁に行くまで小遣い稼ぎというケースもあったでしょうし、口減らし目的もあったようです。 この日記では叔母が心優しく、恐らく祖母とたいして年の変わらなかったねえやまでもがしがみついたというのが分かって幸いですが、当時は今以上に格差社会でした。 

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