続きです。

  こちらは眼福というよりは脳福(?)なのかも知れませんが・・・

  横浜市歴史博物館に行く前に、汚部屋発掘品から3点を受付で預けようと思って、連絡を取っている学芸員さんにその旨メールしたら、本日は在館という事で、受付でお会いする事が出来ました。

  横浜市の歴博は主に民具を集めているが、もはや収蔵庫がパンパンになっているので、横浜つながりがないものは、祖母の関東大震災当時の日記であろうと、その時の居住地の博物館などに寄贈していただきたいとの事でした。

 家人A、自分の実家の物もどこかで引き取ってくれないかと言っておりましたが、それ、都内のしかるべき施設に聞かないとダメって事なのね。

 企画展の内容は横浜の大名。


  横浜にも小ぶりながら(失礼!)大名がいたのです。

  戦乱の世が終わったため、城郭はなくて、陣屋を本拠とするお家でしたが、何と出自が北杜市の武川衆。つまり信玄家臣団の末裔なのです。

 展示コーナーの最初に、信玄家臣団88将の図(米倉家蔵)がありました。有名な信玄家臣団は24将ですが、88は珍しいのだそうです。時期が過ぎたら削除されてしまうかも知れませんが、読売新聞オンラインで紹介されています。米倉家のご先祖様はちんまりと隅の方にいらっしゃいました。

 武川衆と言えば、豊橋の友人が案内してくれた、東海道でただ二つだけ残っているという本陣のうちの一つ、二川宿本陣でも『文化4年(1807年)から明治までの約60年間、武田氏の家臣・馬場信春の子孫とされる馬場彦十郎が、二川宿の本陣職を務めた』とWikipediaにあります。展示を見て、こんなところにも武田家家臣団末裔が・・・と驚いた事がありました。



  馬場信春は武川衆の代表的な人物。そして、今回の横浜の大名家にはルーツが武川衆の柳沢吉保の六男が養子として迎えられていたりで、北杜市との縁が深いのです。

 (先祖は武田信玄の末裔です (本当)。 信玄の親戚であり、重臣 No2 甘利虎泰 (あまりとらやす) が我が先祖です (厚木市編纂民家の歴史より)。武田信玄は大小数百回の戦で生涯一度しか敗れておりません。その強さの秘密は武田二十四将の騎馬軍団です。一将百五十〜二百騎を率いる機動部隊で、中でも甘利隊の武勇は有名で、戦場で「甘利隊前へ!」とかけ声がかかっただけで、敵が退散したとの史実があるくらいです。・・・武川衆じゃないけれど、信玄家臣団の末裔にはこんなお方もいらっしゃいます。💦 −先の衆院選で比例で復活の前幹事長、甘利明氏の公式サイトより

  今回の展示のメインは幕末から維新後の米倉家の記録ですが、所領は陣屋があった横浜のみならず、関東の何か所かに分かれていますが、ちょうど今放映中の大河ドラマ「青天を衝け」と時代がかぶっています。

 幕末から主に軍事的な実務を担う事が多かったという米倉家、どこかで騒動を企てていた頃の栄一たちとニアミスしていたかも知れません。

 歴史というのは、主人公を据えてみると物語としては面白いけれど、別の立場から見ると、より当時の実態に迫ることが出来るのだなぁと実感します。

  豪農ではあるけれど、元は士族ではなかった、いわば庶民の出の栄一たちがぐんぐんと力をつけて行く中、弱小大名家(とはいえ、ペリー艦隊が来たおりにも海防に赴くなど、幕府の信頼はあつかったようです)が、幕末の動乱期の負担に体力が落ちて行く様子も伝わって来ました。

  記録文書が主体の展示のため、ビジュアル的には午前中の着物のような華やかさはありませんが、見ごたえのある展示でした(米倉家に伝わる鎧はありましたよ。戦闘のない時代のものですから、きれいに保存されていて、小柄ながら、がっしりした体躯の人向けサイズに見えました)。

  そして、毎度思うのは・・情けない、日本人なのに、読めないよ〜、草書という事。
  
  そして、もうひとつ思うのは、祖父母の代までは、毛筆で書くことが出来、特に曾祖父の書いた文字などは展示物とそん色ないレベルだったのに、今の私ときたら、ペンや鉛筆でもミミズののたくりになってしまうというトホホ現象。

  ですが、これも刺繍や総絞りなど豪華絢爛だった打掛が、庶民にとって手が届くようになったのと同じ、進化なのです!と開き直らさせていただきますわ。

  帰る頃には雨も止みました。

  
  最後に興ざめな蛇足をひとこと。

 ジャパニーズ・ウェディングのチケットは地元紙のプレゼント応募で当選、歴博チケットは寄贈品御礼でご送付いただいたものでして・・・交通費とお昼代だけで1日楽しませていただきました。(^^ゞ

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