今年も8月15日がやって来ました。
日本人にとって、ご先祖様が家に戻っておられる時でもあるし、終戦を迎えた日でもあり、忘れられない、忘れてはいけない日です。
戦前生まれで戦争の記憶がしっかり残っている方がだんだん減って来ています。
我が家で言えば、からかい半分の操縦士の笑い顔が見えるという状態で機銃掃射を受け、学校の壁に張り付いて歯の根が合わなかったという母、戦病死した兄の遺骨を引き取りに行った北京で、日本人の下級兵士の横暴な振る舞いを見たという父、名誉の戦死と言われるので表立って泣けなかった一人息子を喪った近所の母親が、物陰で声を潜めて泣いているのを見たという祖母。
もう誰もいません。
実家の直系では年齢的なズレ、性別、病気などの事情で、誰も戦地に赴かないで済んだのですが、子どもの頃、身近に戦争で受けた傷を持つ方が何人もいらっしゃいました。
母の友人のだんな様で今の我が家の近隣圏で眼科をしていらした先生は、長崎のご出身。たまたまご自分は県外に出ていて、原爆投下後の長崎に戻ったら親兄弟の遺骨すら拾えなかったという悲しい思いをされたそうですが、とても穏やかな方でした。
子どもの頃によく我が家に寄られた祖母より年下のシングル女性、彼女は昔、祖父母の家で行儀見習いでお手伝いさんをされたことがあったそうですが、ご主人が戦死されていました。
母の友人の一人は沖縄戦の大田中将の娘さんでした。真っ赤なスーツの似合う毅然とした素敵なシニアでしたが、その過酷な家族史は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」で読みました。
その沖縄では、県民の4人に一人は戦争で亡くなりました。あまりに悲惨です。
そういえば、お世話になっている接骨院のゴッドハンド先生が他の患者さんに話しかけている声が漏れ聞こえましたが、お母さまは沖縄戦で従軍看護婦として奉仕した白梅学徒隊の生存者との事でした。
子どもであった私に、辛い思い出を直接語り掛ける人はいませんでしたが、母や祖母づてに聞きましたし、周囲では誰それがどこで戦死したというような話が、主にこの時期になると時々聞こえて来ました。
戦場へ赴かずに済んだ父ですが、都内にあった家は空襲で焼かれ、祖母が未亡人だったこともあるし、父を含む子どもたちに覇気がなかったこともあり、その後誰かほかの人に土地を取られてしまい、さらに鎌倉にあったという別荘も取られたと言います(ずっと以前、江ノ電に乗った時、このあたりに別荘があったと父がつぶやいていたことがありました)。
まぁ、富の再配分だったと言えないでもないですが・・・(そういう時、父はなくなったものは仕方ないと恬淡としていました。おおむねその気質を受け継いだようで、執着心の強い家人Aとは相いれないです)。
義父は以前も書いていますが、広島に原爆投下の直前まで赴任していたところを、本人曰く、上官と喧嘩して庄原へ移動したんだそうです。それで被ばくを免れたものの、軍務として直ぐに処理に行かされて、地獄の光景を見たと・・・ふだん、私には4パターンの俺様説教系の演説ばかりしていた義父の辛い経験、最晩年のある日、家人Bに話しかけているのが聞こえました。
そういう辛い話を自信の経験としてして聞かせてもらえる機会がほとんど無くなり、もはや風前のともし火です。
ありきたりで軽い言いかたになってしまいますが、こと戦争に関しては、喉元過ぎれば熱さを忘れるでは絶対にいけないです。
幸いに映像、音声などの資料はまだ残っているので、これらは大事に引き継いで、戦争の記憶をなくさないようにしなくてはと思います。
第二次世界大戦で亡くなられた方々のためにお祈りします。
そして、ウクライナをはじめとする戦地や紛争の地にも平穏な日々が戻って来ますように。
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我が家で言えば、からかい半分の操縦士の笑い顔が見えるという状態で機銃掃射を受け、学校の壁に張り付いて歯の根が合わなかったという母、戦病死した兄の遺骨を引き取りに行った北京で、日本人の下級兵士の横暴な振る舞いを見たという父、名誉の戦死と言われるので表立って泣けなかった一人息子を喪った近所の母親が、物陰で声を潜めて泣いているのを見たという祖母。
もう誰もいません。
実家の直系では年齢的なズレ、性別、病気などの事情で、誰も戦地に赴かないで済んだのですが、子どもの頃、身近に戦争で受けた傷を持つ方が何人もいらっしゃいました。
母の友人のだんな様で今の我が家の近隣圏で眼科をしていらした先生は、長崎のご出身。たまたまご自分は県外に出ていて、原爆投下後の長崎に戻ったら親兄弟の遺骨すら拾えなかったという悲しい思いをされたそうですが、とても穏やかな方でした。
子どもの頃によく我が家に寄られた祖母より年下のシングル女性、彼女は昔、祖父母の家で行儀見習いでお手伝いさんをされたことがあったそうですが、ご主人が戦死されていました。
母の友人の一人は沖縄戦の大田中将の娘さんでした。真っ赤なスーツの似合う毅然とした素敵なシニアでしたが、その過酷な家族史は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」で読みました。
その沖縄では、県民の4人に一人は戦争で亡くなりました。あまりに悲惨です。
そういえば、お世話になっている接骨院のゴッドハンド先生が他の患者さんに話しかけている声が漏れ聞こえましたが、お母さまは沖縄戦で従軍看護婦として奉仕した白梅学徒隊の生存者との事でした。
子どもであった私に、辛い思い出を直接語り掛ける人はいませんでしたが、母や祖母づてに聞きましたし、周囲では誰それがどこで戦死したというような話が、主にこの時期になると時々聞こえて来ました。
戦場へ赴かずに済んだ父ですが、都内にあった家は空襲で焼かれ、祖母が未亡人だったこともあるし、父を含む子どもたちに覇気がなかったこともあり、その後誰かほかの人に土地を取られてしまい、さらに鎌倉にあったという別荘も取られたと言います(ずっと以前、江ノ電に乗った時、このあたりに別荘があったと父がつぶやいていたことがありました)。
まぁ、富の再配分だったと言えないでもないですが・・・(そういう時、父はなくなったものは仕方ないと恬淡としていました。おおむねその気質を受け継いだようで、執着心の強い家人Aとは相いれないです)。
義父は以前も書いていますが、広島に原爆投下の直前まで赴任していたところを、本人曰く、上官と喧嘩して庄原へ移動したんだそうです。それで被ばくを免れたものの、軍務として直ぐに処理に行かされて、地獄の光景を見たと・・・ふだん、私には4パターンの俺様説教系の演説ばかりしていた義父の辛い経験、最晩年のある日、家人Bに話しかけているのが聞こえました。
そういう辛い話を自信の経験としてして聞かせてもらえる機会がほとんど無くなり、もはや風前のともし火です。
ありきたりで軽い言いかたになってしまいますが、こと戦争に関しては、喉元過ぎれば熱さを忘れるでは絶対にいけないです。
幸いに映像、音声などの資料はまだ残っているので、これらは大事に引き継いで、戦争の記憶をなくさないようにしなくてはと思います。
第二次世界大戦で亡くなられた方々のためにお祈りします。
そして、ウクライナをはじめとする戦地や紛争の地にも平穏な日々が戻って来ますように。
私の父はギリギリ戦場には出かけていませんが、軍服にゲートルを巻いた写真がありました。
父のすぐ下の弟、私から言うと叔父さんですが、亡くなって知ったのですが、原爆に直接、被ばくはしていないのですが、原爆投下後すぐに学生として後かたずけに駆り出されたとのことです。長崎に近かったので。
親戚も戦後生まれの人がほとんどで、戦争の話をできる人がいませんね。
でも、学生時代に長崎出身の子がいるのですが、戦後20年以上たっているのに、結婚話があると、長崎市内に住んでいて、被ばく2世、3世と言われると、いろいろ言われると、言っていました。
戦争が終わり、半世紀以上たっていますが、今もそういう話はあるのでしょうかね?