あれからもう29年も経ってしまったのですね。
1995年の今日、阪神淡路大震災が起きて、その後地下鉄サリン事件が起こり、世の中が大変な事になった年でした。
母が亡くなった年でもありました。
29年前、家人Bはやっと就学した頃、家人Cはまだ園児だった時で、朝はとにかく気ぜわしく、敢えてテレビをつけない時期でした。
突然、電話がかかって来ました。「テレビ見た。見てないの? すぐに見なさい」と母の声。悲鳴に近い声でした。
すぐにテレビをつけたらテレビ画面には壊滅的な状態になった神戸の街が映っていました。
1995年の今日、阪神淡路大震災が起きて、その後地下鉄サリン事件が起こり、世の中が大変な事になった年でした。
母が亡くなった年でもありました。
29年前、家人Bはやっと就学した頃、家人Cはまだ園児だった時で、朝はとにかく気ぜわしく、敢えてテレビをつけない時期でした。
突然、電話がかかって来ました。「テレビ見た。見てないの? すぐに見なさい」と母の声。悲鳴に近い声でした。
すぐにテレビをつけたらテレビ画面には壊滅的な状態になった神戸の街が映っていました。
幼い日々を過ごした思い出深い街だったもあって、病の床に伏しながらも娘に知らせたい気持ちに駆られたのでしょう。
若い頃の祖父は転勤が多く、母は幼少期を錦帯橋のある山口県岩国市、神戸で小学生時代を過ごしました。きっちり入学から神戸だったのか転校をして途中からなのか、もう確かめようもないのですが、最初は地域の学校、途中からは神戸大学付属に通ったとは聞いています。
ひとり娘だった母を亡くした後、八ヶ岳に行く都度、祖母といろいろな話をするようになりましたが、その頃の神戸はそれはおしゃれな街だったそうです。
住んでいた住宅街には外国人も多く、電話がついていたのが祖父母の家だった事で借りに来る外国人の中で超感じ悪かったのがイギリス人だったと言っていました。
ロシア革命で日本に亡命したロシアの人も住んでいて、日本人と結婚したロシア人はそれは感じのよい紳士だったとも言っていました。ただ、この紳士が危篤になった時、うわごとでロシア語をしゃべるようになって日本人の奥様が怖いから一緒にいてと来られたという話も聞きました。
母の方は通学の時、祖母がつくってくれた弁当袋の紐がびよ〜んと伸びて地面をこすりそうなのが嫌だったとか、祖母が髪の毛を切ってくれたが、ピーターパンの話をしてくれるはいいが、バランスが悪くて左右切りそろえているうちに、とんでもない髪形になってしまったという話も聞かされました。
母は神戸の街並みの事はあまり語りませんでしたが、付属小学校の同級生の方々とは晩年まで仲良くしていただいており、病が分かる半年前にもクラス会に行って遊んでいて、本人も食欲不振は遊び過ぎのせいだと思い込んでいたくらいでした(蛇足ながら、奈良の依水園の前オーナーさんはその時のメンバーです)。
そんな街が大きな災害に襲われ、画面に焼け焦げた姿をさらしながら煙をもうもうと上げている。母は驚愕や落胆など、もろもろの思いを私に伝えたかったのではないかと思います。
今仲良くしてもらっている前の住まいの近所の友人、お母さまが神戸の実家を売り払って横浜に転居、思い切った事をされたと賞賛したことがありますが、そのお母さまは当時そごうにお勤めで、もしも早朝ではなく日中にあの大地震に襲われたらおそらく命はなかっただろうと言っていました。
勤め先の壁が崩れ落ちたそのすぐそばが席だったそうです。
改めてお亡くなりになった方々の魂が安らかである事、被災された方々の心の傷が癒えていますようにとお祈り申し上げます。
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若い頃の祖父は転勤が多く、母は幼少期を錦帯橋のある山口県岩国市、神戸で小学生時代を過ごしました。きっちり入学から神戸だったのか転校をして途中からなのか、もう確かめようもないのですが、最初は地域の学校、途中からは神戸大学付属に通ったとは聞いています。
ひとり娘だった母を亡くした後、八ヶ岳に行く都度、祖母といろいろな話をするようになりましたが、その頃の神戸はそれはおしゃれな街だったそうです。
住んでいた住宅街には外国人も多く、電話がついていたのが祖父母の家だった事で借りに来る外国人の中で超感じ悪かったのがイギリス人だったと言っていました。
ロシア革命で日本に亡命したロシアの人も住んでいて、日本人と結婚したロシア人はそれは感じのよい紳士だったとも言っていました。ただ、この紳士が危篤になった時、うわごとでロシア語をしゃべるようになって日本人の奥様が怖いから一緒にいてと来られたという話も聞きました。
母の方は通学の時、祖母がつくってくれた弁当袋の紐がびよ〜んと伸びて地面をこすりそうなのが嫌だったとか、祖母が髪の毛を切ってくれたが、ピーターパンの話をしてくれるはいいが、バランスが悪くて左右切りそろえているうちに、とんでもない髪形になってしまったという話も聞かされました。
母は神戸の街並みの事はあまり語りませんでしたが、付属小学校の同級生の方々とは晩年まで仲良くしていただいており、病が分かる半年前にもクラス会に行って遊んでいて、本人も食欲不振は遊び過ぎのせいだと思い込んでいたくらいでした(蛇足ながら、奈良の依水園の前オーナーさんはその時のメンバーです)。
そんな街が大きな災害に襲われ、画面に焼け焦げた姿をさらしながら煙をもうもうと上げている。母は驚愕や落胆など、もろもろの思いを私に伝えたかったのではないかと思います。
今仲良くしてもらっている前の住まいの近所の友人、お母さまが神戸の実家を売り払って横浜に転居、思い切った事をされたと賞賛したことがありますが、そのお母さまは当時そごうにお勤めで、もしも早朝ではなく日中にあの大地震に襲われたらおそらく命はなかっただろうと言っていました。
勤め先の壁が崩れ落ちたそのすぐそばが席だったそうです。
改めてお亡くなりになった方々の魂が安らかである事、被災された方々の心の傷が癒えていますようにとお祈り申し上げます。
震災の日は偶然、身内の誕生日にもあたり、いろいろな意味で記憶に残る日にもなりました。
地下鉄サリン事件のときは、別の身内がフレックスタイム勤務だったために難を逃れ(私鉄某駅での状況から「何かあった」と察したそうです)、その時「生きて」いた地上の公共交通機関を使って勤務先まで行ったと、のちに語ってくれました。
1995年、私にとってもいろいろあった年だったなぁと思いました